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文久3年9月1日(1863年10月13日)

【京】攘夷別勅使有栖川宮・副使大原重徳の東下決定。
容保・攘夷別勅使に随行の命、
【京】後見職一橋慶喜に鎖港督促の沙汰/
【薩】大久保利通、越前藩に久光上京決定を報せ、春嶽上京を促す
郡山藩、会藩士を間者と誤り殺害/
【長】直目付毛利登人・前田孫右衛門・表番頭格周布政之助罷免

■横浜鎖港問題
【京】文久3年9月1日、攘夷別勅使有栖川宮・副使大原重徳の東下が決定し、京都守護職松平容保に勅使随行が命じられました。

<ヒロ>
政変で激派公卿が追放されても孝明天皇の破約攘夷への強い意志はそのままで、政変翌日の8月19日には幕府へ攘夷督促(具体的には横浜鎖港)の沙汰が下りました(こちら)。さらに、同月24日、朝廷は、因幡鳥取藩主池田慶徳らに攘夷督促のための東下を命じましたが、のちに両名はこれを固辞しました。(一方で中川宮に命じられれていた西国鎮撫使の設置は廃止され、既に攘夷監察使として長州・九州方面に向かっていた正親町公菫は呼び戻されることになりました)。

ところが、江戸の幕閣は、政変の報を受けて、一転して横浜鎖港に消極的になっていました。後見職一橋慶喜からの知らせでこれを知った在京の池田慶徳・池田茂政・上杉斉憲・蜂須賀茂韶は、同28日、連署して攘夷監察のための勅使東下を建議しました(こちら)

この日の決定は、上記四藩主の建議を入れたものでした。 なお、大原は前日に蟄居が解かれたばかりでした(こちら)

【京】文久3年9月1日(1863年10月13日)、後見職一橋慶喜に横浜鎖港督促の沙汰が下りました。

関連:■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉」 ■徳川慶喜日誌文久3
参考:『七年史』一、『徳川慶喜公伝』2、『維新史』三(2004.11.28)

■春嶽再上京
【薩】文久3年9月1日、薩摩藩士大久保利通(当時一蔵)は、越前藩士岡部豊後宛に久光上京決定を知らせ、春嶽上京に期待する書簡を認めました。

「御都合能御帰国尚御安康被遊御精勤奉賀尋候砌、御中途より海福雪殿被差越御口上之趣以貴簡帯刀(=小松帯刀)へ被仰下候御旨趣逐一承知仕、則遂言上候處、別而御念被為入候御儀、如此世態に付而は、右辺之内情は通例之事に思召、更に御疑念無之、私共一同にも会而別意無御座候。呉々御安堵被成下候。京師も先月十七日御発動(=禁門の政変のこと)に而、暴論家○倒、無事相調候由、誠に以大機会相成、三郎様(=島津久光)御発駕も来る十二日に御決定相成り、折角差急配慮仕候事に御座候。御藩にも御同様早々御上京相成候筈、何も不遠拝接可奉申尽文略仕候。帯刀にも先月十九日発足仕候に付、右御返詞旁、私より奉捧愚礼候。恐煌謹言」

<ヒロ>
越前藩と薩摩藩にとっては待ち望んだ「大機会」が到来したわけです。大久保は久光の上京が決まったことを伝えるとともに、春嶽の上京も当然のこととしています。ところが、朝廷は、久光には8月28日に上京の沙汰を下していましたが(こちら)、越前藩への反応は冷めたものでした・・・。

【京】文久3年9月1日、武家伝奏野宮定功は、越前藩に京都守衛の兵を出すことは無用との旨を達しました。

「去日以来、京師不穏に付、御警衛人数可差出哉之旨に候得共、追々御静謐にも趣候間、其儀に不及候。万一御用之節は可有御沙汰候間、其節は速に参著可致事」

<ヒロ>
越前藩では、政変翌日の8月20日にも、京都の情勢が穏やかではないので藩主父子が速やかに上京すべきかどうかを尋ねたとこころ、「越前守上京之儀は尤もに候得とも、父逼塞未免内上京候而は條理等不相立候に付可見合事」との指示を受けていました。逼塞とは、春嶽が3月に、政事総裁職の辞任が聞き入れられぬまま福井に帰国(こちら)して受けた処分を指すのですが、実は、5月17日に幕府から許されていました。しかし、朝廷は逼塞を許されたとは認識していないのでした(こちら)

関連:■テーマ別「春嶽の総裁職辞任」「越前藩の挙藩上京(政変)計画」「松平春嶽再上京」 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニ(2004.11.28)

■長州藩内訌
【長州】文久3年9月1日、保守派の要求により、直目付毛利登人・前田孫右衛門・表番頭格周布政之助が罷免されました。

あうあう・・・時間&能力不足です・・・。(どなたか、「今日の幕末長州」作ってください〜:願)

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